はまるほどtasty…

生息地じゃんぷ、せくぞ。にゅすはそろそろ卒業。他にもお散歩してたらうっかりJr.沼に浸かり中。

私記:私のヲタク備忘録。

ここ最近おた友と語らう事の多い私(と相方)。

相方も書いていたと思いますが、私もまとめたいなあと思って、現在の自分のヲタク観を作り上げていった過程を整理していきたいなあと思います。

 

最初に断っておきたいのは、あくまで私記であること。読んで得をすることは特にないと思ってください(笑)

主観だだ漏れな意見をぶっぱなす予定ですので、不快に思わせてしまったらごめんなさい、でもやめません←

 

因みに私の人生で培ってきた人間的な部分はとてもめんどくさいです(いきなり重い)

何回も会ってる方や日々某呟きサイトで交流している方はお察しかと思いますが、

正直何事も凄く形に拘る人間です、その上人に話す前にめちゃくちゃ自分の中で考えをぐるぐるした結果まとまっていない言葉を口に出してみんなが???なっているうちに突然決断して実行する…けどすぐ悩む…を繰り返す人間。(迷惑)

自分の中では本気を出しておたくをしてきたということに自信があるわりに、それが相手にどう映るのかをすごく気にして生きてきてます、自己肯定感があるようでめちゃくちゃない(笑)

文章を書くのは何回も書き直せるから頑張ってまとめますが、口頭はすごく苦手です。色んなところでこれまでのおたく人生のことやヲタク観をお話してきましたが、多分以前話したことや価値観とこれから書く文章が食い違っていることもあります。どちらも本当の自分だしその時は言葉が足りていなかったのだと思うので悪しからず。

 

 

さて、まず過去から現在までちょっとでも私のヲタ人生に関わってきた人やグループを時代ごとに簡単にご紹介。

 

 

 

 

  • 髙木雄也
  • Hey!Say!7(旧)
  • (Hey!Say!JUMP★)
  • V6★(2回目)
  • 伊野尾慧☆
  • (BOYFRIEND)

 

 

これだけいるけど、濃い人はほんの1握り(☆が歴代担当、★が歴代担当グループ)。()は自分からではなく周りが好きで沢山見ていたものor周りの影響が高じてハマったものです。こう並べてみると自分が思っていた以上に結構飽き性な人っぽい、尚且つ人に影響されやすい…

まあ、ものによるという感じ、長いものは長いし、短いものは極端に短い。

担当とかだけの変遷を辿っていけば引くほど簡素にいけそうなんだけど、それだとまとめる時に補足ばっかりになってしまうので、あえて全部書きますね。(笑)

 

 

とりあえず、時系列に沿ってまとめていきましょう。

 

 

<幼少期 >

#01V6①、TOKIOJ-FRIENDS、嵐

#02三宅健

 

V6やTOKIOJ-FRIENDSに出会ったのはきっと物心がつくより前のこと。

この時の主な先生は母親7つ上の従姉妹です。

 

マッチ世代で、光GENJIによってジャニ好きの芽を出した母は生粋のイケメンオールラウンダーです。(笑)彼女は嵐以上のジャニーズのグループは1通り通っているのでは?!と思えるほどいいとこどりをしてつまみ食いしてきていると私は認識しております。(笑)

ちょうど母が私たちに「ジャニーズ」というものを教えてくれた(というか刷り込んだ)時ハマっていたものがV6そしてTOKIOでした。キンキもかじっていた母は当然のことながら私たちの生まれ年がきっかけとなって活動を始めたJ-FRIENDS(TOKIO,V6,KinKiスペシャルユニット)も応援していました。

母はジャニーズが大好きでしたが(過去形で表現しますが、現在も興味はあります。ただ今は違う界隈で人生を謳歌している)、所謂ジャニヲタではありませんでした。所謂茶の間、カレンダーはうちにあるしCDもあるし当時テレビに出ていた番組は余すことなく録っていたけど、ジャニーズのコンサート(多分他も含めて)には私たちがおたく化するまでV6の1回しか行っていませんでした。

その分8時だJ、やったるJはもちろん少クラは第1回からきちんと記憶しているほど母は熱心な茶の間おたくでした。

(今井翼くん、錦戸亮くんは絶対に売れると思っていたし、伊野尾慧天使時代はぞっこんでした)

 

そしてもう1人の先生、7つ上の従姉妹はこの当時まだ小学生だしそれほど頻繁に会うわけでもなかった。たしかV6とかあゆとか当時から好きだったはずだけれど、所謂ヲタクではありませんでした。

 ほぼ山の中(実は山田くんと同郷、多分山田くんはもっと拓けてるところだろうけど)という田舎っ子な幼少期を過ごした私たちは近所のおうちにあったシルバニアと家のテレビ(あとJ-FRIENDSの付録トランプ)以外遊ぶものがなかったし、移動は必ずジャニーズソングがかかっている車でした。

その上テレビっ子な父親とテレビっ子且つジャニーズ好きな母親に手塩をかけてもらいながら育った私たちは知らぬ間にV6やTOKIOタッキー山Pすばるヨコ村上などを覚え、車移動の絶頂だったころエンドレスで車中に響いた曲=A・RA・SHI(1999)を歌詞の意味も分からずポケモン言えるかなの如く唱える子どもになっていました。(笑)

 

ちなみに健ちゃんのことがどうして好きなったのかは未だに分かりません(とんだ爆弾)

というと語弊があるのですが、この当時まだ幼稚園にも通っていない3姉妹の間っ子小娘は父を除けばV6と幾人かのジャニーズ、それと年に1.2回会う従兄弟のお兄ちゃん達くらいしか男の人というものを認識しておりませんでした。健ちゃんはその小さな世界で出会ったカッコイイお兄さん、だったはず。

V6の中で1番誰がいい?と聞かれたことがあったのかは思い出せませんが、5歳になるころには母にコンサートで健ちゃんのうちわを買ってもらって大喜びした記憶があるのできっとその頃から「好き」と刷り込まれていたんだろうなあと思います。

今は健ちゃんが好き!!という感情がどうしてなのかちゃんと認識出来ていると思います。でもきっとこの感情は後から伴ってきたものなんだろうなあと後々感じていくものだったので詳しい話は#V6②でお話いたします。(笑)

 

これが1歩先に進む最初のきっかけとなったのはきっと引越し。

今の住まいは年に何回か会っていただけの例の従姉妹(のちの超ジャニヲタ)と会おうと思えば毎日会えるような距離(実質10秒くらい)になったのであります。

母の地元であるこの地に帰ってこなければきっと私は母の茶の間を引き継いでいたし、加えて自分は性格的に凝り性ではないからこの10数年後ゆるゆるーな茶の間おたくとして過ごしてたはずです。山田くんを同郷のスーパースターくらいにしか思ってなかったかもしれないし、立地の悪さからコンサートに何回も行こうなんて思ってなかったかもしれない。

 

ここは小さなきっかけに過ぎないけど、思えばとても大きな分岐点だったのだと思います。

 

 <小学生時代(中学時代)>

#03 塚本高史

#04 小栗旬

#05 KAT-TUN

 

半分はジャニーズではありませんね(笑)

ただ、塚本高史さんとの出会いはジャニーズが間接的に関わってはいます。

この人とジャニーズといえばそう、「木更津キャッツアイ」。ですが。

私は木更津キャッツアイをリアルタイムでは見ていません、なんなら多分連ドラは数話しか観ていない(笑)日本シリーズ世界シリーズはなぜだかめちゃんこ見てるけど(笑)

好きになったのはいつだろうと思い返してみたら多分「FIRE BOYS〜め組の大吾〜」(2004)です。

ちなみに動機は顔がものすごくタイプだ、という不純なもの、俳優に対していっちゃん言っちゃいけない台詞だと思ってる(笑)

声は苦手だったし、ハードでどちらかというと尖っている中身も決してタイプではない、演技だってどの作品に出ているのかは把握していましたが逐一マメに作品を視聴してはいませんでした。

こんなんでファン名乗っちゃいかんよと昔の自分に言ってやりたいですが、今だってとっても好きです。幸運なことに好きになると苦手な声でもいつの間にか好きになる傾向にあることも彼によって気付かされました。

今は喋る声が心地よいくらい好きですし、演技も見ていくうちにこの人の演技好きだわ!!と気づき俳優さんとしてすごく好きです。

でもそれはここ5~7年くらいのこと。単純にこの人が理想の顔!!というのが私の中で長い年月続きます。

(余談ですが、1番好きなビジュは「マンハッタンラブストーリー」(2003)のしのぶちゃんあたりの金髪、次が安定の「結婚できない男」(2006)の英治くん。茶髪最高。)

ちなみに我が家ではこの13年間誰ひとりとして塚本高史かっこいいねと共感してくれません。人生において共感してくれた人は1人かふたり(笑)

後に「未来シアター」(2012~2015)にて小山くんが昔塚本くんの髪型に憧れて真似していたと言っていたのを見て凄まじく感動したものです。(笑)

中共感してくれる人大募集中しているのでそういう方はぜひお声がけくださいませ。←

 

 

さてここから1年後、私はまたしてもお気に入りの俳優さんを見つけました。

小栗旬くん。

(優子演じる横峯さんも憧れた)救命病棟24時の第3シリーズ(2005)で擦れているけど心優しい青年を演じていた彼に惹かれました。

もとよりごくせんで一花咲かせている彼はこの時20代前半にしてはかなり重要な立ち位置にいたのですがまだドラマでは脇役が殆ど、その後あれよあれよと実力が世間に知れ渡り有名作に立て続けに抜擢されるようになります。花より男子イケメンパラダイス名探偵コナン、映画で言えばクローズ花男…当時小学校高学年~中学生だった私の周りでも小栗旬カッコイイ!は今の菅田将暉福士蒼汰カッコイイ!と同じ意味合いを持っておりました。言わば時の人となった彼の出演作やバラエティは追いやすかったし、そのためしっかり見ていました。

だけど、現在は追っていないし、なんなら好きだったこともうっかり忘れてた次第であります。←

人生初の過去の男、それはなぜか?結婚したからではありません、それよりもっと前でしたし、なんなら塚本さんなんて25という若さで一般人の方と結婚してるし(笑)

私は"その世界の真ん中にいる人を一番に出来ない"という偏屈なスタンスを持っているからです。

旬くんを追うのを辞めようと思った潮時はまさに奥さまとの出会いである「貧乏男子 ボンビーメン 」(2008)ころ。後に出てくるNEWSが絶頂に大大大大大好きだったころです。

元から手元にいたわけではないけど、彼は言わば一流階級を登り始めて主役が当たり前になっていた。私の中でもう見届けた、という達成感が勝手に芽生えてしまった。今でも彼の演技はいいなあと思うけど、それは世間としての目なんだと思います。

 

私がこの人のファンだと周りに公言した俳優さん2人は奇遇にも、同い年で共演歴も多く仲が良くもあります。

そして先ほども述べたように若いうちに結婚をして子どももいて家庭を持って活動しています。今で言う"イケメン俳優"出とはいえアイドルではない彼らは頻繁にトーク番組で子どもや奥さんの話をします。ドルオタの畑で長く生活している私にはそういうのすごく羨ましく感じる、既婚者2人属してる某グループも好きなだけにそういう話への賛否があるのが当たり前なのは知ってるけど、私はとてつもなく萌えます(笑)

だって愛する奥さんや子どもの話を堂々とする好きな人の表情はとっても幸せそう。いい旦那さんしてるんだろうなあってほくほくします(笑)

 だからアイドルももっと恋愛してほしい(ただし相手のパブリックイメージは気にするめんどくさいスタンス)し、結婚はいずれしてほしい。

 

話は遡って、ここからはKAT-TUN

端的にいうと、彼らは私たちに"ジャニヲタ"という生き物を教えてくれた存在です。(笑)

 

ここまでのお話で分かるように、私の傍にそれまでジャニヲタという生き物がいませんでした、ネットに被れていない純粋無垢なジャニーズ好き小学生は、もちろんそんな生き物がいること自体きちんと理解していません。

だがしかし私は知ってしまうのです、新居の真っ白な壁が年々赤西、赤西、赤西、亀梨、KAT-TUN、赤西、小山…になっていく従姉妹の部屋を目の当たりにして。(笑)

上記したように従姉妹とは7つ違い、私たちが小学生に上がる頃には彼女は中学校2年生、親の目の届かないところへ出かけることも、部屋を好きに飾ることも許される歳になっていました。

もともとV6やカミセンのCDを買い集めていたことも知っていたし凝り性なのは知っていましたが、

以前から少クラやぴかいちさん、そしてポップジャムは彼女の教科書だったようで、彼女は私たちが知らぬ間に結成当時のKAT-TUN及び亀梨和也赤西仁、はたまたデビュー前の小山慶一郎内博貴の熱烈なファンと化していました。

結成してまもなく、私は6人の写真を見せられ恒例の"誰が1番好き?"を言われたものです。

(この時私は直感で亀梨くんを選びましたが、1度上田くんを通り、今では全員同じくらい好きです)

ちなみに母は抜かりなくて、〇〇ちゃんKAT-TUNが好きらしいよと伝えた時田口くんがアクロバットも出来るし器用だし私は1番好き〜と言ってたくらいにはKAT-TUNを熟知していました。(笑)

 

ちなみに従姉妹の母親(私のおばさん)はヲタクではありません、今は韓流ドラマとかが好きですが趣味はほとんどなかった、だから従姉妹は我が家とは違い英才教育ではない。どうやって彼女がヲタクになる情報をかき集めていたのかは謎ですが、

 あれよあれよと従姉妹のヲタク度が増していき、おそらく高校生になり携帯を持ち始めJr情報局にも入り始めた頃、これが彼女の沸騰地点だったのでしょう。亀梨くんを一瞬通ってはいるものの、KAT-TUN結成当時からほぼ9年間彼女は赤西担兼小山担(内くんのあれこれが落ち着くまでは内くんも兼任してました)でした。

当時twitter等のSNSは発達していないものの掲示板やチケ流、ショップ写、参戦、担当、同担拒否などのワードは彼女の口から沢山聞きました。携帯を持っていない、パソコンも家にない小娘たちが知る由もないジャニオタ用語をこの当時から使いこなしていたのは間違いなく彼女の影響です。(笑)

それと"コンサートは戦場"というワードもここで覚えました(笑)今思えばおそらく正しくは"KAT-TUNの仁亀担にとって"コンサートは戦場だったのだと思うのですが、当時NEWSは数回でKAT-TUNのコンサートばかり行っていた仁担の従姉妹からしたらそれは正解だったのかもしれません。メンバーには「お前ら声出さねーと命はねえかんなああ」と煽られ、同担拒否気味なのに周りは赤西担だらけで(笑)

"NEWSは演出が地味、ファンがおとなしい"という固定概念も彼女が影響しています、まだDVDもデビューコンとサマリーしか出ていない時代、実際のライブを見たことがない私たちはKAT-TUNと比較した彼女の言葉をそのまま鵜呑みにしていました(笑)

まあKAT-TUNのライブ映像を見て育った私からすれば数年後見たネバエンの映像はとてもシンプルだなあと思ったし、初めて行った宝石コンでは"やっぱり戦場じゃない!ファンおとなしい!!"と思いました。(笑)

 

KAT-TUNにハマる従姉妹を見ることで私たちはジャニヲタというものを学ぶ他に、もう1つ視点を変えたものがありました。

それは少クラ。そう、母が初回からほぼ毎週欠かさず見ていた少年倶楽部です。

私にとって、日曜の夜は長年父と一緒にちびまる子ちゃんサザエさんを見ることが恒例でした。和室でそれらを見て、夜ご飯ができる頃にダイニングに移動し鉄腕ダッシュを見る…が定番でした。

そんな中夕飯の支度をする母は少年倶楽部タイムでした。我が家にはテレビっ子夫婦のおかげで家にはテレビが2台(現在はアナログ再生専用も合わせたら4台あります)あったので、ちびっ子たちとダンナがアニメを楽しむ中母は若い少年たちの頑張りを見ていたわけです。(笑)

それが従姉妹からKAT-TUNというかっこいいお兄さんたちを教えられたちびっ子たち、この頃従姉妹の家に行っては少クラのKAT-TUNやNEWSの出番ばかりが詰まったDVDやら単独コンのDVDやらを見るようになります。そこで母がよく口にする少クラとはこのことか!と理解したのです。(笑)

 

余談ですが、母は上記したように誰か担当とするジャニタレやJr.がいたわけではなくて、その時お気に入りのJr.を私たちに紹介してくれます。特に長年可愛いと言っていたのは今井翼錦戸亮伊野尾慧

幸運なことに彼らはデビューの道を手に入れ、今なおジャニタレ人生を謳歌しています(2017年秋現在)。田口くんもお気に入りだった母は特にあの伝説のコーナー"ダジャレ隊"(2005〜)を私たちが少クラを本格的に見始める前から推していて、今でこそ全国区朝の情報番組で披露されている"いーのおっけい"を(実はいやいや)やっていた伊野尾ちゃんがとっても可愛い!!と我らに植え付けていったのでした。

先行の目を持つ母ですが、そんな彼女でさえ、

『あー伊野尾ちゃんね、顔可愛いよねうん可愛い』くらいの反応しか見せなかった自分の娘がこの数年後まんまと彼の魅力にどハマりして未来の担当(増田)から担おりまでしちゃうなんて思ってもみなかったことでしょう。(笑)

 

ちなみにダジャレ隊が結成された2005年、この年はキムタク主演ドラマ「エンジン」が放送された年。まだまだJr.に疎かった私でも知っていた中島裕翔が主要子役たちの中でも特に目立つ役、風の丘ホームに新たにやってくる少年役で出演した月9ドラマ。

私史上このドラマは今まで見てきたドラマの中で永遠に揺るがずトップ3をキープしている作品です。月9というブランド、キムタクというブランドが輝かしいものだと理解していた私はこの時、中島裕翔ってすげーと素直に思っていました。…ええ、そのすぐ近くに座って静かにもぐもぐしている眼鏡のお兄ちゃんが同じジャニーズJr.(しかも同じグループ)なんてこと、数年後母に言われるまで知りもしませんでした。(笑)この時からお兄ちゃんと妹の兄弟愛家族愛なんてものが好きだった私は勿論徹ちゃん葵ちゃん兄妹のメイン回はエンジンの中でも特に好きな回でしたし、優しい徹くんが大好きだったしお兄ちゃんほしいなあ〜と思っていました。だけど、まさか数年後少クラでこれまた地味なのにポテンシャルの高いわりと中心核にいる有岡くんが徹ちゃんだったなんて、なんでもっと早く教えてくれなかったんだと母には言いたいです。(笑)

翔央くんが大活躍していた伝説の「テーマ:プライド」回。後ろで綺麗に踊っていた有岡くんを母は"ダンスが上手な子"と私たちに教えてくれました。ダンスの良し悪しなんぞまだ分からない小娘たちはそれをきちんと鵜呑みにして長年有岡くんはダンスが上手と認識していましたが、彼を本当の意味でダンスが上手と認識したのはもっとずっと後の話です。

 

余談が過ぎましたが、てなわけで私たちはKAT-TUNを足がけに少しずつ外の世界というものを聞き、テレビ越しにそれを見る経験を積んでいくのでした。

 

 

 <2006年 怒涛の年>

#06 Ya-Ya-yah

#07 増田貴久

#08 テゴマス、NEWS

 #09 東方神起

 

 ここのフェーズ、怒涛の1年間で起こります(笑)

2006年の出来事です。

正直、Ya-Ya-yah増田くん東方神起に関してはとても僅差でほぼ同時期です。

 

ひとつずつ紐解いていきますと、まずはYa。

 Ya-Ya-yahは、当時教育テレビっ子であった私たちにとっては忍たま乱太郎の主題歌を歌うJr.のグループというものがおそらく最初の認識でした。こんなちっちゃくて声が高いのに私たちよりもお姉ちゃんよりも年上なの??と当時の天使薮くんを見て思ったのはきっとこの世代あるあるだろうと思います。おたくじゃなかったけど、毎週金曜日だけYaの映像がエンディングに流れるのは長年忍たま乱太郎見ててすごく特別なことだったし楽しみにしていました。この時はまさかこんなどハマりするとは思っていません。りぼんっ子だったけど、「Ya-Ya-yahがやってくる」は連載が終わって彼らにハマってから読んでるし、2004年金八先生第7シリーズに金八トリオ(八乙女鮎川)が出演した時も強いて言うなら太陽が可愛いかなと思ってたくらい、翔央くん(当時は多分名前もうろ覚え)は高校生だから出られないのね可哀想、くらいだったはず。(高校生でも出られることをこの時私は知らなかった)

そんな私たちが初めて彼らに興味を持つ小さなきっかけは2005年夏。

MステでNEWSとサマリーメドレーをやった時かなと思います。戦隊ものっぽいカラーの衣装でSTARTを披露した彼ら、確か最後の最後で翔央くんがバク転するやつ。(違うメドレーかな、資料がなくて曖昧ですが^^;)

突然ぬるっと出てきてとにかく高さがある綺麗なバク転を決めて曲をフィニッシュした彼。母の刷り込みにより当時の我が家では翔央くんは「カマっぽい子」でした(かなり失礼)

小さな頃は女の子みたいに可愛くて仕草も女の子みたいだったという母の偏見によって娘たちはこの時本来以上の衝撃を受けることとなるのです(笑)

伊野尾くん以外のこの世代には然程興味がなかった母はこの時私たちに「翔央くん凄かったけど別に消してもいいよね〜?」と問うたため、私たちは特に何も考えずいいよ〜と言いました、今思うととんでもなく大バカ者です、この先一生好きだと思われるNEWSとYaが地上波の国民的音楽番組で共演した貴重な数分間ですよ?(笑)STARTの君は燃える太陽さ、という歌詞で太陽が映るところになる度笑っていた私はそろそろうるさいと言われるくらい何度も何度も見返して記憶にはしっかり残ってるけど、これをDVDにさえ残していない我が家、史上ワースト10位には入る失態でしょう。(笑)

それはさておき、Yaを好きになる大きなきっかけはその翔央くんが年始番組滝沢秀明主演「里見八犬伝」(2006)に出たこと。

当時の愛読書テレビナビの記事で見た2人のツーショットインタビューがきっかけで知り、尚且つキャッツアイメンバーでは姉のお気に入りである佐藤隆太くんも出てるっていうしじゃあ見てみようかなと家族で見たその前のフレンドパークと本編の2夜。

これが姉の人生に大きな影響を与え、さらには私たち妹にも大きな影響を与えることとなるのです。

姉はとりたててジャニーズに自分から興味を持つ方ではありませんでした。母親や従姉妹の提供してくるものにほいほいと捕まる双子たちに対して4歳年上の彼女はV6やTOKIO、嵐は好きだけど、それ以外はふーん、へーと受け流すスキルを持ち合わせていました。

それがとうとうはまってしまった、しかも1番厄介ともいえるJr.でトップグループとして確立しているYa-Ya-yahのメンバー山下翔央くんにです。

この年はKAT-TUNが満を持してのデビューをした年、Jr.の絶対的トップに君臨していた彼らなき当時、次Jr.を背負うのは間違いなくYa、その両腕にキスマイだったりABCが支えを入れる…という状態でした。

そこからが早くて、当時中学2年生パソコンを覚えた彼女は過去のYa-Ya-yah!を某動画サイトで、さらには従姉妹の友達でKAT-TUNから担降りした方から頂いたビデオで習得し、雑誌は買い集め、ついでにNEWSも興味が出てきてなおかつ荒らしも再熱した姉はあれよあれよとジャニヲタ街道を登っていきました。

彼女がそこで目にした動画の中でも私たちの今後を大きく左右するもの、それが山下翔央と増田貴久の新婚夫婦コント(って表記でいいのかはわからんが)「愛Q劇場」です(笑)

その当時「NEWSの中ならまっすーがいいよね」は姉と私の中で共通認識としてあり、ガチバカ!(2005)もダンドリ。(2006)も点いてたら見てた(ガチバカの今担と元担が兄弟役の回はたまたま熱を出して夜寝られなかった日にしっかり見た)し、愛読書その2週刊テレビジョンのTEPPENの時期載ってたやつとかはご丁寧に増田くんだけ切り抜いたやつを今でも所持してますが、はっきりと前のめりで自分たちから録画し始めたのはこのあたり。

いつ増田くんを知ったのか定かではありませんが、例の従姉妹にチェリッシュのジャケットを見せられ例のNEWSだったら誰が1番好き?をされた際は増田くんと答えた記憶があります。

(ちなみにNEWSは母に驚くほどヒットしていないグループ、我が家では殆ど話題にならない、代わりに従姉妹の家に行くとよく話には聞いていましたが大体は小山くんや内くん亮ちゃんの話(ぎりサマリー時赤西くんにいじられてた手越くらい)だったので増田くんのことを認知するのには相当な月日がかかっています。(笑))

まあそんなこんなで我らは着々とジャニヲタを極め始めるのです。

 

これまたタイミングが良かったのは、妹が山田涼介に堕ちたこと+手越祐也にひと足早く目をつけていたこと。

今まで10年近く岡田准一だけ(お気に入りだった相葉くんは除く)を純粋無垢に好きだと言ってきた彼女を単発ドラマ「探偵学園Q」(2006)で見事仕留めた山田くん、そしてその破れた鉄壁をぬるっとくぐり抜け8年間担当の座を譲らなかった手越祐也(目をつけたのは2005年公開疾走時期だけど堕ちたのは2006年とややこしいのでその辺は割愛)は私を増田担へと導く間接的な起爆剤でした。

我が家史上前代未聞で相方を虜にした山田くん、彼の準レギュラー番組は当時少クラと「Ya-Ya-yah」の歌コーナーのバック。そしてまだまだちょっと勝気で案外怖いものしらずだなという印象だった黒髪可愛い手越祐也少年もYa-Ya-yah!の準レギュラーメンバー

姉が翔央くんと増田くん、相方である双子の妹は山田くんと手越くんにはまった、そして増田くんがお気に入りでYaに興味がある間っ子の私。これはあまりにもタイミングが良過ぎました。(笑)

加えてNEWSとしては色々あって活動休止期間に陥っていた彼らですが、テゴマスデビューを控えており露出もぐんと増えました。ハマりたてって怖いからまあそりゃスウェーデンデビューイベントのWSから始まり出演する番組は完璧に抑えました、そりゃどっぷりです。

かれこれ11年近くNEWS好きをやってきた私たちは実のところテゴマスから入っている、というわけです。

そしてタイミングがまたまた良かったのはNEWS。毎年楽しみで仕方が無い年末のカウコン中継、我が家全員がテレビの前で新年の挨拶を済ませたあと彼らは華麗に復活したのです。2007年1月1日、彼らをリアルタイムで応援する権利が私たちにも与えられたのです。

問題が起こった諸々は元からバレーボール中継が好きな母やジャニーズネタなら一応娘達に報告しようとしてくる父の影響もありリアルタイムでWSやら新聞に触れていたし、第1従姉妹の大好きだった1人は当事者だったし当時もその悲しみや辛い状況には触れていましたが、実際休止の時は5月からなんて急だし連帯責任なんてそんなことあるのか、と他人事でした。

それがこの半年で地味に見守っていた個人活動を経て彼らの門出を祝いたいという立場になった、デビュー前やデビュー当時、8人時代から好きな人にとってはただのド新規だろうなというレッテルを自らに背負いながらも幸せで時に辛くてでもやっぱり彼らを好きで幸せな日々が始まったのです。

 

そしてこのあたりとほぼ同時期に我が家には大きな革命が起きます。

母がジャニーズ以外の男性グループにハマったのです、その名も東方神起

もとより第1次韓流ブーム(2003~)から韓流ドラマや俳優さんにハマっており着々とジャニーズ離れはしていたのですが、コレが決定的でした。

学生時代は洋楽にハマっていたしフォークもやっていた人なので元から歌上手い人も好きです、ジャニーズばりの顔立ちにダンスも歌も上手い東方神起、そりゃあ気づいた時にはどハマりしていました。

これは少なからず私の概念が変わった瞬間でした。彼らはバリバリの韓国アイドルでありながら、日本では立派なJ-POPアーティストにまでなれるからです。

男性アイドル=ジャニーズだと思っていた娘たちに母は海を越えてやってきた彼らをも仕込みました。(笑)

とにかく楽曲がいいし歌は全員上手い、且つ1人1人の実力・個性がはっきりしていた。

ジャニーズはJrの時期だってありますが大半のスキルはデビューしてから色んな経験をしてつけていく、それに対して韓国のアイドルは練習生の時に仕込まれたスキル・グループ力を充分に積み重ねて完成した状態でデビューするシステムです。もとから工程が違うから同世代で敵うわけはないのですが、それはそれは衝撃的だった。

そして大きかったのは母にも一緒に騒げる仲間が出来たこ。ブログから出会った人も多くいたようですが、娘たちのPTA仲間がこぞってハマってくれたおかげで彼女が手を出さずにいたライブの世界、生で音楽やパフォーマンスを体感する世界へと導かれていったのです。

そのおかげで私たちは姉や従姉妹が高校生で行くようになったライブに関して母親の目が緩くなり中学生でライブデビューを果たすのです。

 

一方このころ私はジャニヲタになってきた影響でパソコンを使いこなすようになっていきます。今となっては我が家にとって必要不可欠となっているプリンターも画像編集ソフトもこの時期我が家に導入され、私は母や母の東方神起仲間に配布するポストカード、レーベル作りに精を出す日々となったのです。

この時期まだ周りはジャニーズに芽生えてる友達なんて極わずかでなおかつヲタ仲間は相方と姉と従姉妹だったので、今みたいにNEWSでポストカード作ったりはそこまでしていなかったけど、自分たちでカレンダーは毎年作ってましたし、この時期に録画した連ドラはやたら凝ったレーベルを作成して印刷していました。

ここが現場やおた会でよく配る私たちのポストカード作りの原点です。

 

さてここでスピンオフ。

これを書くにあたって自分のはまった人やハマった時期など記憶の限り書き出して自分で自分に事実確認の作業を行ったのですが、どうやら増田くんにどっぷり浸かる前にハマっていたらしい人がいました。(増田くんにはまってからだと思っていたけどのちのち調べたら記憶違いだった)

何事も誰かからの影響で何かを応援し始めてきた私が初めて自分から興味を持った人物、それが北山宏光くん。
北山くんは少クラで男闘呼組の名曲「Midnight Train」を替え歌、というか台詞調で決めた時にこの人…好きだ…となり、私の中でキスマイブームがやってきました(多分祈り初披露あたりだと思われる)
正直北山くんに関しては本当に刹那的なブームだったので私的には担当歴にカウントしていません。(笑)ただこのあたりでタイミングよく山下くん(当時NEWS活動休止期間だけど姉の中でやまぴーブームが起こっていたし相方の好きな山ちゃんがバックで踊る可能性があったから逐一追ってた)率いる期間限定ユニット「Kity GYM」に選抜されていたことで私にとってはキスマイの北山くんお気に入り期間はどちらかというとKityの北山くんお気に入り期間に途中ですり替わったなと今となっては思っています。
私のスタンスとして、誰かその人を好きになったらそのグループのメンバーにも目を向けて、全員のことが好き!!となったら見事担当グループ承認!という謎のルールがあります。が、キスマイは正直自分がグループを愛せるほど一人ひとりに興味が湧かなかったし、好きになる自信がなかった(玉森に関してはお気に入りだった期間がある)

おまけに長年ジャニヲタの先生をしてくれている従姉妹がわたしに提供してし続けていたのはホンモノのオラオラグループKAT-TUN。(笑)

正直今ほどキスマイは完成していなかったし無理してオラオラしていた印象、祈りは今でも大好きだし、北山くんのソロ曲「チカラ」(2007くらいらしい)をYa!で披露した映像は摩り切れそうなくらい見返しましたが、従姉妹からは「北山は陶酔してる」と言われ続け、周りからの評価が得られない且つ情報を自分だけで収集出来るだけの技術も手立てもなかった私は彼を担当にするまでには至らなかったのです。

ちなみにKityには現在の担当伊野尾慧も所属しておりましたが、私の目には「あ、お母さんのお気に入りだ!JJのど真ん中にいてもここに入っちゃうとあまり目立たないんだな〜衣装袖ないし簡素だし光より目立たないのかあ」くらいにしか映っていませんでした、あ顔は好きだった(今考えるとほんとごめんな)

 

 

 <2007年 怒涛の年②>

#11 髙木雄也

#12 Hey!Say!7(旧)

#13 V6②

#14 Hey!Say!JUMP

#15 伊野尾慧

 

 

さてさてそして、ついにやってきた2007年。

明けて早々本格的にNEWSヲタデビューを果たし、順調にYa信者としての沼にもズブズブ浸かっていた年。

 

北山くんへの熱も落ち着き、増田くん真っしぐらなかと思いきや、ここでも結構な寄り道をします。(笑)

例のごとく毎週楽しみな少クラを見ていました。髙木くんのことは密かに気になっていましたが、「あなたにお手紙書きましょう」有岡くんと髙木くん回で改めてかっこいい!と認識し、この人好きかも…と家族に公言することとなりました。

周りに彼を一緒に応援してくれる人もJJ担もいなかったのでここで終わってしまっても不思議はなかったのですが、あの2人のお手紙は今思うと新グループの助長であったし、数ヶ月後彼は期間限定ユニットHey!Say!7として山田涼介らと名を連ねることとなります。

さて、何度もさっきから出ているように私は強い味方を手に入れると安心したように沼に浸かれる人間です。私にも強力な協力者とともにHey!Say!7にどっぷりな時代がやってきました。寝ても覚めても雄也、そして増田くん。当時東方神起にどっぷりだった母には待望のウィークリーオリコン1位のチャンスを姑息な手(先輩のライブ会場で握手会を急遽実施する)によって阻まれたとねちねち言われるものの耐えられましたし、彼らの登場によりYaの名前は2番手になってしまったけど全員が後輩で第一期間限定だし、何だかんだで実質トップはYaだと信じて疑わなかったからあの9月の衝撃的な発表までは楽しい日々でした。

(ちなみに私の中での髙木雄也ブームはJUMP結成までには落ち着いています、日付を辿ってみると結構短期間だったんだな、と分かりますが、CDを買うとかJrのコンサートに行った姉にグッズを買ってきてもらうとかしていたので私的には担当歴に入れてあげたい。)

 今ではこんなに幸せで大切な記念日、10年前の9月24日は私たちにとってもう人生終わったも同然の大事件なのでありました。

 

小さな時から4年に一度バレーボールのプレゼンターとしてデビューする流れはきちんと理解していましたが、実際ジャニヲタになってからデビューを心待ちにするのは初めてでした。加えて今までデビュー組ばかり見てきた自分がそのデビューする側のJr.を熟知しているという状況も初めてでした。どこからかYaに何人か加えてデビューするんじゃないかというウワサが囁かれたりして、それもそれで嫌だけどデビューはしてほしいなあなんて思ってました。

発表の日、姉と相方とHEY!×3を観ました。

どの順番で呼ばれたのかはもう覚えていないのですが、全てが衝撃的すぎて。

大好きなYa-Ya-Yahからは薮宏太八乙女光

あまりにも若すぎる中島裕翔山田涼介知念侑李、そして森本龍太郎

それに加えて七光りと毛嫌いしていた岡本さんちの息子(圭人)と7のお兄さん有岡大貴髙木雄也伊野尾慧

 

まず私たちが大好きだったYaは2人がデビューすることによってなくなってしまうし、Yaの中では山下翔央一択(なんなら当時は翔央くんより断然特別待遇の薮光は姉にとって天敵だった)の姉には彼が所謂"残される方"だったのは大問題ですし、妹(相方)は大好きな山田くんにはメジャーデビューは早すぎると嘆いていて、間っ子の私は正直髙木くん下火だったしこれはもうどうしたらよいのか分からない状態でした。

それだけでもカオスだったのに、発表直後お祝いに駆けつけた先輩はテゴマス、イノッチ。今まで茶髪に止まっていた手越祐也ど金髪に染めて登場した時には出したい涙も引っ込みました、ほんとあれは信じられない光景だった。(笑)

 

 後々に考えて唯一喜びだったのは伊野尾ちゃんのデビュー。Kityで選抜されたからか7はシンメ(後輩)の有岡くんと同じグループでも明らかに存在としては格下の雄也(後輩)が抜擢されて、その後ろでニコニコ踊る彼のことは子どもながらに凄いプロだなと思っていたし報われてほしいと思っていたから少なからずおめでとう、と口に出していたなと記憶しています。

 

とはいえ、当時の私はこのグループを許せるわけがありませんでした。現に残された翔央くんを応援していた姉も哀しいし、デビューした山田くんを応援してる相方だって哀しかったしYaが大好きな私だって哀しかった。誰がこのグループで嬉しいの、得するの?と本気で考えていた私はまだまだ子供でした。自分が子供なことを棚に上げて、こんな半数が子供のグループうまくいくわけがない、そう決めつけていました。あの頃の自分からしたら正当な意見でしたが、この頑なな彼らに対する感情こそが私とJUMPの和解を4年もの間遠ざけていた一因でした。

 

 それから私はどこで誰に聞かれても、「Hey!Say!JUMPは個々は好きだけど、グループの成り立ちが好きじゃないから好きじゃない」と言い続ける日々が始まったのです。

 

 

さて、ここまで書いてくるのに大分時間も頭も使ったのでなかなかに疲れてきたし、読んでくれている人(いるのか分からないけど)は段々しんどくなってきただろう、と思うので一気に4年くらいはぱぱっととばしますね。(笑)

詳しくは相方のブログに書いてあります。(笑)

 

 

 <高校〜大学生時代(中学時代)>

 

明くる2011年、ここがターニングポイントだったのは間違いありません。

あまりに受け止めきれない出来事が社会的にもジャニヲタ界的にも個人的にも起こりすぎてちょっと書き出しきれないとは思うのですが、お付き合いくださいませ。(笑)

 

 

まずはじめにこの年は自分が中学を卒業し高校入学の年でした。

簡単に中学時代を説明しますと、中学1年生で人生初のコンサート(2008-9)、しかも大好きなNEWSのコンサートに行けて、2年生では念願のテゴマス1stライブ(2009)、3年生はテゴマス2ndライブ(2010)が諦めきれず追加公演のみ行ってから高校受験に勤しみました。

運良く希望の高校に入れて、これからはいっぱいライブにも行きたいし、オタ活に精を出すんだと思っていた状況でした。

気持ち的にはNEWSのファンでテゴマスのファンでした。だけど彼らは一向に6人で活動をしてくれない、慶ちゃんはevery.に抜擢され奮闘するにつれ、テゴマスがいろんな由緒ある歌番組に呼ばれたり地道にやってきたことが少しずつ世間に知れ渡っていくにつれ、亮ちゃんが所属する関ジャニ∞がどんどん脚光を浴び始めるにつれ、山下くんが本格的にソロ活動に勤しんでいくにつれ(シゲはこの時1人今後の自分についてもがいてたと後で知る)彼らはパタリと活動をしなくなってしまった。

冠番組こそなかったけどCMにいくつも起用されたり念願の24時間テレビのパーソナリティをつとめたり年またぎでドーム出来たり(インフルエンザ蔓延とかNEWSの年またぎは今やなきものにされてるとかは置いといて)。だけどそんな2010年は一変カウコンですら亮ちゃんはエイトで違う地にいて、2010年年末から2011年で彼らが6人揃って表に立ったのはMarching Jのみでした。

社会が大きく揺れたあってはならないあの出来事がなかったら彼らは集まらなかったんだろうし、みんなを元気つけるための動画だって他のグループが新しい映像や音源を配信した中、彼らは過去のPVダイジェスト。

思えば前年に秋に始まり春終了した現NEWS4人がもった初の冠レギュラー番組「走魂」(2010-2011)はドラマが忙しかった山下くんやエイトの活動が活発だった錦戸くんはまったく関わっていません。期限付き(ローソンのCMキャラクター中でローソンの一社提供)とはいえ自分たちの番組(しかもめっちゃくだらなくて面白い)を持てていること、そこで自分たちのニューリリースの宣伝をしている姿ですら嬉しかった私ですが、やっぱり6人で番組をやってほしいと思っていた。

 

一方で走魂ロスの中、春から始まったのは「ヤンヤン JUMP」(2011)ーYa!から引き継がれたテレ東のこの枠でJUMPが全員揃って番組をやることは初めてでした。

NEWSでさえまだなのにいいな〜〜と思ってはいたものの、何となくデビュー当時のトラウマも傷が塞がってきて、素直におめでとうと思っていました。

全員で番組をやることは当たり前じゃないと知っていたからこそ、そのチャンスを掴んだ彼らは羨ましかったけど、

長期休みに入るたびにコンサートをし、サマリーでは大道芸を習得し大人社会とまだまだ幼い年齢層が中心のファンの狭間でそれぞれに求められたことを健気に頑張っていた彼らの話はジャニヲタをしていれば耳に入ってくる話だった。

あといつだったか、多分瞳のスクリーンリリースした後くらいの時期にやっていたコンサートの工夫点をテレビライフの連載で裕翔(だったと思う、曖昧すぎる)が語っていた内容に感心したことも小さなきっかけ。

今まで個々の個性を出してパフォーマンスをしていたけど、あるダンス曲でフリの癖を統一、上着の前のチャックの開け具合も統一してシンクロすることに重きを置くことに挑戦した、というものだった。

子どもじゃないじゃん、自分たちで考えてパフォーマンスを磨いて…アイドルだから自分が目立つことを考えてもいいのに大人数を生かして団体で勝負をするなんてかっこいい、そう思った瞬間でした。

 

突然ですが、私が救いだったなと思っているのは、身近にじゃんぷ担がいたこと、山田ファンがいたこと。

まず小中学校時代は幼なじみ。実は旧7時代に私たちが布教したらまんまと裕翔におちてしまった子。今はとっくに足を洗っている←けど、ジャニーズというものさえしらなかった純粋無垢な彼女に教え込んだのは私たちだし(加速したのは学校のお友達のせいみたいだけど)、どうしても受け入れられない時代もこの子の前だけはちゃんと話を聞いてました。(笑)中学入ったら山田担の後輩もいたし、間接的に彼らの日々の頑張りは常に日常にあった。

それと今でも一緒に入ってくれる中島担と山田担のリア友兼ヲタ友たちはデビュー前とか当時から好きで、高校に入ったくらいからコンサートに頻繁に通うようになって話をしてくれた。山田担の彼女 は殆どのCDを私たちがJUMP自体には興味がない時から貸してくれていておかげで昔の音源化されてる曲は殆ど分かる。

私の運命を変えた(大袈裟っぽいけど割とガチ)サマリー2011の東京ドームに連れていってくれたのも彼女達です、ありがとう。

 そして我が家の逆境にも程がある状況下で山田くんをテレビで追い続けた相方には労いの言葉をかけたい。(笑)

相方が追ってなかったら、編集してダビングしてなかったら今頃我が家にない映像なんて残ってる映像の殆どだろうし、彼女が平成ファミリーズからMステからなにまで追っていく精神を持ち合わせてなかったら私は今頃ここでおたくなんてしてなかったでしょう。(笑)何だかんだで山田くんの出演作は結構見てるし、音楽番組も見てる。

 だからこそ彼らが努力をしていたそれが報われたんだと冠番組をもらえた時そう思えたんだと思う。

 

さて話は戻りますが、ヤンヤンの話。

山田盲目な手越担が我が家にいたおかげでヤンヤンの初回は試しに私も見ました。

なにこれ面白いじゃん、それが初回を見た時の感想。

企画が面白かったのもあるけど、ちゃんとその敷かれたレールを目安にボケだったりツッコミだったりきちんと出来ていた。

初回からその後も一段と輝いて見えたのは伊野尾くん。規格外の発言やらなんやらすごくする(笑)確かに見た目が天使の頃からブラックな発言したりしてたはずだが、ここまで面白いとは…(笑)高校〜大学生くらいの成長した彼は私の中で「顔がジャニーズの中でもすごくタイプ」という評価を得ていたのですが、中身も面白いとなり、この頃から「わりとお気に入り」に昇格しました。

そして全体でいえば、歌コーナーにも見入ったのは大きかった。

テレビから遠ざかっていたHey!Say!JUMPは確かに成長をしていたのだと目の当たりにしてしまった。私が未だに色眼鏡で見ていたってのもあるかもしれないけど、それ以上に彼らは見た目も実力も付けてたんだと思い知りました。

日常的に見ていたNEWSは正直ダンスに重きを置いていなかったし、彼らに関しては曲が好きで声が好きで歌割りが好きだった。その中で彼らよりも若いし大人数なのに揃ってて目で魅了する彼らには一目置くようになっていました。

初めて自分から興味を持って追ったシングルはOVER(2011)で、曲もダンスもタイプだった。いつもはリア友兼おた友に借りるのを待ってチェックしていたシングルを初めて我が家でも買おうとなったシングル。

 

 

そんな中その前々日に知ったのは、Hey!Say!JUMPメンバーの不祥事。

 しかもクラスで誰かがウワサしてるのを聞いて知った。その場で泣き崩れるような立場にはなかったから仲の良い友達にどうしよう…と動揺を伝えるだけだったけど、正直ショックだった。

こんなにショックを受けてること自体にショックだった、というのもあって尚更。

正直なところ私は彼がJrの頃から苦手だった。詳しくは書かないけど同い年で気にする存在ではあったけど印象はいつもプラスではなかった。

それでも6,7年見ていた彼が小さくても法を犯してしまったことはとてもショックで悲しくて、それと不祥事で謹慎を受けることは本人はもちろん周りは悲しくて辛いことだって知ってたから後のことを考えるとモヤモヤは募るばかりだった。

色んな噂は飛び交っていたし、もしかしたら彼がそうせざるを得なかった外的な要因があったのかもしれないし自分は当時蚊帳の外だったから怒ってもお門違いだったんだろうけど、やっぱりそのグループ全体やそれに関わるひとたちのことを思うと、未成年だって責任持たなきゃいけないことがあるって思った。

そして申し訳ないことに、あの事務所は彼をここに帰してあげることはもうないと思ってたし、どんなに時間が経っても彼らのためには帰ってきてほしくないと思っていた。

決して嫌いなわけじゃなかったし嫌いと言えるほど知らなかったと思う、だけど帰ってくるのは違うと思ってる。龍ちゃんじゃない他の誰でもわたしはそう思っていたと思う。

 

てなわけで思い描いていたリリース日とは全く違うものになってしまったけど、相方がちゃんとCDショップで通常盤(まだ予約はしてないし通常盤ってところがミソ)を買ってきてiPodに入れました。

 

これが2011年梅雨頃の出来事。

それから程なくしてリア友兼おた友たちからサマリー2011in東京ドームのお誘いを受けました。"サマリーといえばKAT-TUNvsNEWS"という固定概念を払拭できなかった傲慢な当時の私はそれを生で見てないのに見に行っていいのかなあと思ったり何かと理由をつけてそこまで乗り気じゃなかったはずだけど、

この頃はもうJUMPのダンスに興味があったしお気に入りの曲もあったし、なにより小さな舞台で繰り広げていた壮大な作品をあの大きなドームでやるってどうなるんだろうっていうワクワクがあったから行こうと決めた。

奇遇にもその日はJUMPが4歳の誕生日を迎える日。そんなタイミングで入れるんだったら記念に入っておこうという軽い気持ちもあったと思う(あの日入りたかったのに入れなかった人がいたら土下座したい)

誰のうちわを持とうかな〜とこの時特別JUMPは誰担と決まっていなかった私は考え顔が好きな言動が好きな伊野尾ちゃんにしよっと、とうちわをこしらえ(初めて手作りうちわを自分用に作った、姉のやつは手伝ったことがある)、伊野尾くんのミニうちわをペンラ代わりに持ちました。

 

席はドームの1番メンステから遠いブロックの天井席だったけど、すごく楽しかった。知ってる曲ばかりだったのもあるかもしれないけど、双眼鏡でじっくり見たダンスに魅了されたし、一度は生で見てみたいと思ってた深紅を1番近くにくるバクステでやってくれたのもあるかもしれない。

でも楽しかったと思えるために決定的だった出来事は幾つかあって、

まず、薮くんと光が「愛しのプレイガール」(2006)をふたりでやったことに歓喜出来たってこと。

昔BESTが少クラか何かの歌コーナーかで「to the freedom」(2006)を披露した時私はガチギレした、これはYa-Ya-Yahの曲だから絶対にあなたたちには歌ってほしくない、聖域に踏み込むなと本当に怒った、いやBESTが大大大大大好きな今でも多分怒れるし許せないと思う。(笑)

to the freedomは光がKity時代かなんかで他三人で少クラで披露した時光の代わりに翔央くんが歌ったりして特別思い入れがあった曲だからそれは選んだ曲が悪かったなとは思うけど、プレガだって同じくまさに絶頂に好きな時の曲でめっっっっちゃ思い入れがある曲だけどなぜか許せたしむしろ嬉しかった。(思えばテレビで披露してたのも見たことがあったけどプレガは普通に許せていたんだけどね)

その感情に気づいた時私の中でいつの間にかもう彼らがJUMPであることを許せてたんだ、と実感できた。そしてこのもう本人たちには歌われることのなくなってしまった曲を本人たちである彼らが歌ってくれることは喜ぶべきことなんだと気づけた。

次に、この日初めて出会った曲「Beat Line」(2011)。

アルバムもシングルもなんだかんだ殆ど聞いてた私たちにははじめましての曲はほぼ唯一と言っていいほど。

これまたなんだ、死ぬほどかっこいい。

曲調からダンスから衣装から彼らの気合の入り方から、全てがかっこいい。考え方とかじゃなくパフォーマンスで純粋に彼らをかっこいいと思ったのはきっと初めてだった。そしてこういう曲を今後もやってほしいと切に願った。

ビトラは結構当時のK-POP寄りな曲はでダンスだと思ったんだけど、たぶんこの時期って、ジャニヲタでありながらK-POPよりジャニーズはパフォーマンスにおいて劣ってる(けどジャニーズのが好き)という複雑な感情を持ち合わせてた時期。これなら勝てるんじゃない?!と本気で思った曲なのです。(母が当時ドハマリしていたのが「INFINITE」というダンスシンクロ率99.9%の異名を持つグループだったことが一因と思われる)

ただいかんせんこの曲の名前も出処も公演直後わからなかった、公演後リア友たちに聞いたけど偶然にもその曲だけ買ってない形態に入ってるはずということだった。(後日調べてくれたみたいですぐに最新シングルのカップリングのビートラインって曲だとわかった)

これだけでも充分この曲には思い入れもあるし大好きなんだけど、これだけじゃない。

本来そうあってはいけなかったかもしれないけど、私にとって本当に支えになった曲だった。

 

 

JUMPっていいなあと思った9月24日からほぼ2週間後。

2011年10月7日は全NEWSファンが少なからず何らかのショックをうけて絶望した日。これだけ待ったのに、彼らはせっかく長い時間をかけて築き上げてきたであろう形では帰ってこなかった。

それまでも、言ってしまえばNEWSのファンはどこから好きになった人だって「待つ」ということ、そして「"NEWSというグループ"が最優先ではない」ということに尋常じゃないほど耐性を持っている集団だった。

グループ発足当時から9人なのに7人体制が基本とか言われる、サマリーには全員で出ない(当時Jr.だった関ジャニを優先させたように見えてもおかしくないスケジュールを組む)、活動休止を余儀なくされる、冠番組もなけりゃレギュラー番組も映画もドラマもコンスタントには出ないメンバーだっている、結成8年でメンバー主演ドラマで曲のタイアップはたった一回(深夜枠、6人ラストシングル)、シングルなんて幾つかの年を除けば1枚出せれば天国かというほど嬉しい、2年に一度のライブツアーなんて当たり前、売れてきた(その上掛け持ちしてた彼の気持ちが明らかにそちらにあった)エイトが優先された結果年に一度全員で揃えるチャンスだったカウコンですら全員揃わないことが2年連続(1年目の直後他でもない掛け持ちしてる彼が来年も単独で年越ししたいと雑誌で発言する)…今思うとこんな仕打ちおかしくない?!ってことがたくさんあった。

何より、この脱退は自分から言い出したなんて、他でもないリーダーだった彼、掛け持ちをしていたわけではない彼が。しかもこの発表、マスコミ各位に知らされてからファンに知らされるという仕打ち。おかげでその事実を知ったのは何の気なしに見たYahooニュースだった、発表後2時間後とかだったから多分ほとんどのファンが似たような形で知ったはず。

私たちの場合、タイミングが悪かったことに夜ご飯を食べ終わりテゴマス表紙のその日発売したドル誌を買うためお母さんに車でツタヤまで送ってもらう直前だった。

そしてこれは運が良かったんだけど、放送されると知ってからというものものすごく楽しみにしていた少クラでの「Beet Line」の放送日、加えて「Master Hits」(増田くんのラジオ)に中丸くんがゲストとしてくる日だった。

とりあえず何時間か泣いてビトラを見て、心を落ち着けてからツタヤに向かう車内でマスヒツを聞いた。(この後ツタヤでは一難あったけど長くなるから割愛)

この2つがなかったらあの日どうなってたんだろうと思う、もっと絶望でこの世の終わりだったと思うからビトラもマスヒツもすごく大切なもの。

そしてその次の日理解のありすぎる塾の室長(錦戸亮と同い年)との二者面談(勉強の話するはずがNEWSの話題で持ちきりだった)がなかったらどうなっていたのだろうと本気で思います。←室長にはすぺしゃるさんくすです(笑)

本気で私たちの生活はNEWS中心に回っていたから、彼らの異常なほどのラジオレギュラー(6人中4人がレギュラー持ち、合計週5、時間にして週5時間弱)を基準に就寝してたしつねに彼らを考えてた。

全員が好きだった、誰かかけるんじゃもうNEWSじゃないんだと思ってた、もうこれ以上はないと思ってた。6人時代からのファンの比率が増えていたこの時代はきっと私のように初めて脱退を経験する人も多かったと思う。

だけど、私が彼らを憎むことがなかったのは不思議だった。決断をした山下くんを嫌いになることはなかったし寧ろ愛おしいくらい好きだし、亮ちゃんに関してはあと何年かで抜けるんだろうなと思ってる部分はあったってのもあるけど今だってすごく好き。

そりゃ彼が決断する時期を早めた山下くんは罪深いと個人的には思った、だけど4人にも要因はあったはず。彼らはNEWSへの思い入れが強すぎた、少なからず2人よりも。山下くんと亮ちゃんとは明らかに何かが違ったしジャニーズ以外の世界にひと足早く出ていたふたりはそれが出来る環境になかったのかもしれない。足並みを揃えられなかったのは2人だけじゃないよ、4人だってそう。誰が悪いと言いたいわけじゃない、誰も悪くない。(このへんの意見は発表直後からほんと変わらない私なりの見解)

あの時決断をした彼らは正しかったんじゃないかと今でも思える。

 

 

 

話変わって。ちょっと話の流れ上飛ばしてしまったけど、再びV6兄さんたちの話をしましょう。(笑)
彼らに再び火がついたのは実は2010年春。少クラプレミアムで観た「will」がきっかけでした。

それまでもV6は大好きで新曲が出る度に我が家は盛り上がっていたしMステも必ず見たし、NEWS復活の時のカウコンで披露した(んだった気がする)ハニビの学ランにトサカ頭の健ちゃんには驚愕したしGUILTY時は特に狂ったように見返してた。(笑)

でもどんなに好きな曲でもCDは買わなかったし母もしだいに買わなくなっていた、それ以降アルバムもシングルのカップリング曲も聴いていない。ほんとに正真正銘のテレビ限定茶の間でした。(笑)

それが、少プレでwill、星の降る夜ではを聴いた時、これはアルバム買わにゃ行かんと思った。でも当時中学生(小遣い制なしのおたく資金は自分のお年玉から出せ方針、ちなみにお年玉は世間の皆様より多分水準低めだった)=お金がない双子たちはどうやら一緒に見てた母も乗り気だし誕生日も近いからと早めの誕生日プレゼントとしてねだったわけです。記憶に残ってる限りREADY?が我が家にやってくるまで我が家にあったV6の最新CDはメジルシの記憶です、2003年つまり7年ぶりです。(笑)(追記:そんなことなかった、セクバニ初回BもMステ観てから一足遅れて正規以上の値で買ってた)

READY?の時期、私たちはもう確実にジャニヲタと化していました、ジャニヲタとなった私たちがまたV6に目をつけてしまった、大問題です。←

そこからは近くにいたV6好きな子にちまちまシングルを借りたり、テレビはきちんとMステ以外も録画したり、ほしいCDは買ったり。

変わらず私は初恋のまま健ちゃんが好きだったけど、この頃から好きの形は変わった気がしました。

昔はただ純粋になんか好き!!って感じだったんだけど、この頃から健ちゃんはメンバーが大好きとか、ファンをよく理解してるとか、そういう部分に目を向けるようになりました。私がドル誌を熟読し始めた時期は既にカミセンのみがレギュラーでじきに1誌1人とか卒業を迎えた。だから健ちゃんの人柄を知るツールって、ラヂオは聞いてなかったから(今も実は聞いてない)、にこにこ健(通称にこ健、日曜更新、健ちゃんのweb連載)だった。姉の携帯で月1のYaの更新や当時週2だったメンバー愛(通称メン愛、現KEIICHIRO、不定期、小山のweb連載)を読むのが日課だった私はそれ以外にもにこ健を読んでほっこりしてた。ダンスが好きとか、昔は苦手な方だった歌声が愛おしく感じるとかそういうところから健ちゃんを改めて好きだと感じて、じきに他メンバーもジャニヲタ的目線で好きを再確認して私は晴れてV6の"おたく"になりました。

 

 さてさて、そんなこんなで高校生の頃は悲願のNEWS4人での復活、じゃんぷの単独公演初参戦など色んな刺激を受けます。

そのうちずっと変わらないと思っていた私の中での比重が徐々に変化していっていることを私は段々と自覚するようになるのです。

 

 

#16 BOYFRIEND

 

その後の何故じゃんぷに傾いたのかとか担おりに至ったのかとか今後書いていきたいのですがその前に箸休み。

今まで母の影響でK-POPも見てきた私たちですがついに母の手の内ではないグループにあろうことか大学受験の佳境で出会っています。

その名もBOYFRIEND、ファンはBESTFRIENDという名の彼女だよというコンセプトでやっている6人組グループです。メンバーの中に双子の兄弟がいることから叔母(従姉妹の母親と私の母の間っ子)がクリスマスライブに私と相方を誘ってくれたのですが、何の気なしに行ってまんまとハマってしまったのです。これもタイミングが良かったのと、楽曲の波長が合ったこと、それにもろタイプな声に出会ってしまったのが大きかった。

華の93年組と同世代のジョンミンくん。彼の見た目もさることながら歌声にまんまと惚れてしまった。惚れた声は今まで増田くんと秦基博さん以外いなかったのに、彼は見事私の耳を射止めました。(現在では有岡くんも仲間入り。長年聞いてたのにおちたのはこの少し後くらいだと思う(笑))そんでもって作る曲がどタイプ。ほんと信じられないくらいどタイプ。(笑)

受験勉強中も集中するためには日本語よりも外国語の方が良かったからBOYFRIENDか山下くんを聴いて勉強していました。

それから大学2年くらいまでは叔母の部屋で韓国のテレビを見たり、借りた子育て奮闘番組(彼らが子役の女の子と男の子のお世話を長期間するもの)にどはまったりしていましたが、大学生活が思いのほか忙しかったのとじゃんぷやNEWSに忙しかったこと、それに彼らはいっとき日本契約を満了してしまってしばらく日本に来ていなかったこともあって、しばらく遠ざかっていました。

 

それがここ1年で新しい日本のレーベルと契約してさらにファンが嬉しい距離でイベントだったりをやってくれるようになり、私も大学の区域からさほど遠くないところでもやってくれるので何回か行っています。

彼らも韓国のアイドル激戦区の中で順調ではなくもがいてきた方のグループです。決して歌やダンスがピカイチにスペシャリストなわけではない、トークがずば抜けて面白いわけではないんだけど、どこか母星本能をくすぐるところがあって、日本に来る度に成長した姿を見せてくれる。JUMP世代だから韓国でいえばわりともういい年齢なんだけど、ひとまず年長者の兵役までは6人で頑張ってほしい。2年間韓国でカムバ出来てなかったけど先日ジョンミンくんの作曲した曲でカムバ出来て、すごく嬉しいので引き続き頑張ってほしい。

 

 

#14 Hey!Say!JUMP(続き)

 

話戻ってJUMPのお話です。

多分きっかけは高校2年のアジアツアー2012。

ありがたいことに絶対エース山田氏のバースデー公演でした。

当時まだギリギリ伊野尾担がすっくない時代でした、周り見渡しても殆どいない。(笑)ちなみにスクリーン見てても彼は歌わないから映りゃしない(笑)、だから山田さんの大切な日にも関わらず気づいたら双眼鏡で伊野尾くんをじーーっくり観察して惜しみなく彼に時間を使ってた。(山田担ごめんなさい)

これまたありがたいことにトロッコ真横でほぼ全員通って、伊野尾くんも通って…周りに伊野尾担がいない中トロッコ最前で「いーのOK」っていううちわを微動だにせず持っている私。多分あれは私のうちわを見てくれていた、何もしてくれなかったけどてかあれで何を求めているのか彼も分からなかっただろう、私だったら分からない←。間近でみた彼はもう信じられないくらい綺麗で衝撃だった。

平たく言うと間近で見たからという単純

 な動機だなと今では思いますが、あの衝撃は大きかったし、あの時から彼は私の中で副担になったのです。

 

第2のきっかけは受験期で我慢し行かなかった矢印コンのDVDを受験明けにみた時の衝撃。

なんじゃこりゃ、めっちゃ胸熱なコンサート…みんなかっこいいし7ウサギ可愛いしBESTとんでもかっこいいしなに?!?!と最早パニック。(笑)

こんなにも行けなくて悔しかったコンサートはNEWSが最後に6人でやったLIVE×3以来だった。

なんならこっちのが悔しかったのかも、それくらいこのDVDに魅了された。

一生分の感情使ったかってくらい思い入れの深い美恋コン初日を見届けて、私の青春時代を翻弄したNEWSが4人で力強く10周年を走り終えて心がほっとしたのもあったのかもしれない、自分が受験を終えてほっとしたのも絶対関係してると思うけど、何はともあれタイミングがめちゃくちゃ良かったのでしょう。

それとsmartは大きな機転。私の中でこのアルバムも衝撃だった。とにかくお洒落でハイセンスな曲ばかり、好きな曲ばかり、しかもめっちゃ伊野尾さん歌っててそこもびびった。(笑)

ぶっちゃけた話、私がじゃんぷに落ちるに至らなかった要因は歌にあった。中学に入ってから(今も)音楽の部活動に属しているということもあってか、音楽的な部分で自分に波長の合うものというのが推すグループの絶対条件なんです。

それまでのJUMPに文句が言いたいわけではありません、今聞いても好きだなあと思う明るい曲だったりとかあるのよ、だけど当時の私は子どもっぽいと少なからずもあった、NEWSやテゴマスやお兄さんなデビュー組の曲を聴いて育ってしまったから。

NEWSとJUMPで絶対的に私の中の順位を付けていたものは曲と歌だった。

NEWSの曲はもう絶対的に信用してて、歌はやっぱりテゴマスのスキルを持ち合わせた彼らには敵わなかったし、必然的に求められる楽曲の難易度も高い分曲のレベルが高いとファンからしたら自負してた部分。(8人6人の時からテゴマスの貢献度は高かった)

だけどNEWSが成長し続けているようにJUMPだって成長をし続けてる、勝手に下に見てたけど彼らだって自分たちに与えられた楽曲を歌いこなし、薮くんだけじゃなく山田くんも他のメンバーも歌のスキルをあげて貢献していた。

今までは1に山田、2に薮くん、3に山田の4知念有岡、56やぶひか、7裕翔時期によって髙木くん差ありすぎでは?って感じの歌割りと認識していて(笑)、せっかく9人もいるのにもったいないと思ってた。吹部や弦楽部を経験し後にオーケストラ部にまで手を広げた私は歌割り厨(譜割り厨)なところがあるため、この辺は重要なところでした。音の種類として、個性的な伊野尾くんや圭人の声は間違いなくJUMPの幅を広げると思っていたからなお嬉しかった。歌の不得手は関係ない、声色の種類は楽曲ひとつひとつの個性を出すためにいい手段なんだと私はNEWSで学んでいたから格差が縮まったこの時ワクワクした。

一方でNEWSが4人になって1番寂しかったのは声が4種類、3分の2になってしまったこと。当然キンキやタキツバのように2人でも、マッチさんや他の歌手のように素晴らしい音楽が作れるし幅のある楽曲が作れることは知っている。だけど山下くんの唯一無二の歌声や亮ちゃんの甘辛い歌声がNEWSからなくなったことは私にとってあまりにも大きなことだった。もちろん4人の曲も歌も大好きだよ、だからいまは全然気にしてないけどこの当時はまだ気にしていた。

そしていつの間にか心はNEWSからJUMPに少しずつ傾いていたのでした。

 

 

だがしかし。私の担当は増田くんでNEWSなのでした。

まあ副担になったと言えど、私のおた人生は結局増田くんに捧げるんだろうなあと漠然とした感覚がありました。伊野尾くんが好きといえど、やっぱり私の中で増田くんの歌声もダンスも特別だし、歌もダンスも得意でない伊野尾くんにおりることなんてまずないとタカをくくってました。(ごめん)今まで濃く見てきた8年間、形から入ったたった3年間では形に拘る私にとって大きな差だった。

 

それが崩れ始めたのはあろうことか彼が久々のテレビレギュラーを果たした朝の

帯番組「いっぷく!」(2014-2015)の増田くんのコーナー。

増田くんで私の理想と違ったもの、それは"やらされそうになった苦手なことを頑として拒みやらない""少しでもやったらどんな結果であれオレって頑張ったとしてしまう"ところにありました。

彼には得意なことが沢山ある分虫を触ることや動物を触ることとか、苦手なことも沢山ある。基本甘々な私はちょっとでも頑張ったらすごいすごいと褒めてあげたい人なのですが、まずやらされそうになったら殆どムリ!の一点張りでテレビなのにやらないことだったり、やったと思ったら結果以上に自分頑張ったでしょえらい!と自分で自分を評価してしまう面を、私はちょっと違うんじゃない?と思ってしまいました。

きっと長年その隣にいる手越さんはプライベートはどうであれ(←)あんなにも体を張って自分に厳しく仕事をしているのに、あなたはちょっと虫触っただけで自分のこと褒めちゃうの?って比べてしまったんだと思う。いじられることが嫌なシゲだって長年いじられ続けるし、増田くん同様虫が苦手な手越くんは海外でミミズとか食ってたし、小山さんだってニュース伝えるためにバッタかなんか食ってたよ?って。

まあ今だったらちゃんとわかるんです、やつらが強靭なだけだってことだって(←)、朝の番組で優しく愛らしい増田くんのキャラクターならああやって振る舞うことに違和感はないし昔からずっとそうだったし増田くんの持ち味じゃないか、ということだって。

でもあの時の私は融通がきかない人間だったので(笑)、彼に彼が持っている個性と違う自分の理想を押し付けて見てしまった。

しかも彼のアイドルとしてのポリシーというものはもっと違うところにあるんじゃないか(例えばプライベートで揚げ足取られないとかファンのことはちゃんと調教するとか)ってことに私はあの時目を向けていなかったんだと思います。

 

その一方で、なんでだか日に日に伊野尾くんが気になるようになりました。どんなに見切れでしか映らなくとも(というかだからこそかも)常に伊野尾慧として完璧に映り込んでるのは腐らずやってきた賜物だろうし、段々周りに気付かれてきた頃だってやっと伊野尾ちゃんに時代が追いついた…!って嬉しかった。真ん中で輝く人間はおた卒をしてしまう傾向にあった私が何故だか離れるどころか彼のことはもっと追っていたいと思った

最早親心だったのかもしれない、それにきっと大きかったのは彼が経験した大学生というものに自分もなったことかなと思います。

現在超ド文系のゆるゆる学科で学生をやっている私ですが、オーケストラを部活動という形でやっておりましてそれが正直めちゃ忙しいです(担おりした3年生の時なんて幹部やってたし特に忙しかった)

自分と重ねるのも変な話ですが、正直大学生が学業以外にも大切な活動があるのってめっちゃ大変だと思うんです。私みたいに学業自体はわりとゆるくて部活とバイトに明け暮れるのにてんやわんやだったなんて人は沢山いるだろうけど、伊野尾くんなんてなかなかの難関校の建築学科で学生をやりながらHey!Say!JUMPという人前に出て尚且つお金をもらうお仕事をやって、現地調査や卒論をやりながらあの伝説のジャニワをこなしていたというのは器用さだけじゃできないことだったと思う。ニュートラルな人に見えて気力や体力で踏ん張ってきたことが彼にはたくさんあったんだと思う。

いやね私も思うんですよ、彼だって無茶ぶりされるとわりとぶーたれるんです(笑)

 でも増田くんは「"主観"のやりたくない」で、彼は「"客観"のやりたくない」なんです。

自分の力量をきっと彼は理解している、運動も苦手だし歌もダンスも苦手だから今回の新体操だってやりたくないと言うよりやったとしても出来ないよ?っていうニュアンスの文句だったんだと思う。(笑)

こないだの放送ではすごく前向きになっててめっちゃよしよししたくなった(笑)前向きにこなす人が好きみたいだけどなぜか好きになる人そういうタイプじゃないから困ったもんだ(笑)

どっちが悪いとかではないんだが、私には伊野尾くんのスタンスの方が見ていて自分にも通ずるものがあるし違和感がないんだと思う。

 

あと、周りの環境もある。NEWSからおりたリア友や相方を見ていてそちらのが幸せそうだった、どの子もNEWSが大好きなまま卒業していた。

姉に言われた「(自担と)結婚してるわけでもないんだしいいじゃん」 という言葉も救われたし大学で出会ったおた友ちゃんも相談に乗ってくれたし。

それとブログやtwitterを通じて知り合えた大切なおた友たち。月1で会ってくれる子もおかげさまでたくさんいるし、会えなくてもリプしあえたり、情報共有をしてくれる方たち。twitterは大学に入ってから始めたから、高校までの出会いならブログでお知り合いになったNEWS担の方たち、JUMPは殆どがtwitterで知り合って、何かと便利なtwitterに生息し始めたからまあ当然気持ちもこっちに傾いたんだろうと思う。

 

 

担おりを決意したのはそうすれば自分がどちらのことも好きでいられると思ったから。担おりとか掛け持ちにしようかなとか考え始めた時はちょうど増田くんが水曜歌謡祭に準レギュラーくらいの時期かな、この増田くんが好きだなあと思った。やっぱり歌って踊ってそれが幸せそうな増田くんが好きで。それと同時になんか好きなところだけ見ていたいなあと思った。大好きで聴かなきゃ1週間を終われない!!と思ってたマスヒツも大学に入ってから時間が合わなくて聞かなくなって、それでも意外と平気でそれも気づかされる要素だった(ちなみに伊野尾くんレギュラーのらじらーも聞ける時間帯にないけどもとから習慣じゃなかったからあまり打撃ではない)

担当とか掛け持ちとかってもっと気楽に考えるか、どちらにも平等な愛を持ち続けられれば上手く出来るんだろうけど、

私にはそれが出来なかった。今はそこまで頑なじゃないんだけも、あの時はことある事に申しているように何事にも形に拘るから、担当だったら仕事面は全部追いたいし全部知っていたい、その人のグループのメンバーが出た番組は極力観たいし映画とか舞台も行きたい…それを人様に求めているわけじゃなくて自分がそうしていたいと思えないと担当と名乗りたくなかったんです。だけどずっとそれが出来ていた増田くんに私は出来なくなってしまった、やっぱり歌声が好きでダンスが好きであと舞台で演技している時も大好き。だけどバラエティは追わなくていいかって思うし、歌が絡んでなかったら私はネタパレの存在さえ知らずにいたかもしれない、まずネタ披露しても観ようとしてなかったかも←

普通の歌手だったらそりゃあ歌う面だけ見ていても許されると思うんだけど、アイドルの増田貴久を好きになった以上これは担当とは自分のルール上名乗れないな、と…増田くんだから尚更さ、あの人のファンはファンとして完璧に信者でないと(それは偏見)

相変わらず増田くんのアイドル観はすごく信頼していてNEWSに対する思いも自分のファンの前であるべき増田貴久の美意識的なものも本当に愛おしいんだよ、ファッションに対する熱意もそれが仕事に繋がっていくのも心底嬉しいし。だけどそれは自分が彼の中でいやだと思ったところをもう見ていないから、人さまに向けられたものだからいいんだと思ってしまうんだと今思うんだよね。

私は彼が熱を持って提示してくれるものに自信を持って応えるだけの責任感がない、今冷静に頑なではなくなった自分が分析してもやっぱり私は彼の担当であるべきではない。

 

あと、NEWSはどこか見届けたと思ってしまったことは大きい。私が応援し始めた時でさえまだ知名度や人気は日陰に近くてシングルやアルバムなんてばーーっと出したらしばらくなくて、2年に1回しかライブをやらない時期だってあって…それが個々でのレギュラーはもちろん単発でも期間限定でもコンスタントに全員での番組があって毎年のようにアルバムを引っさげたツアーが出来る。

 私が見始めた頃のNEWSは色々と不便ながらに本当に好きだったけど、6人時代が恋しいとか昔はもっと苦労したんだとか偉そうに言いたいわけじゃなくて、もう4人のNEWSから私は取り残されている感じがするってだけ。あの熱量を今の私は出せない時がきてると思う。

Whiteで担おりしようと思ってたけど出来なくて、掛け持ちを経てQUARTETTOは純粋に楽しくて、NEVERLANDはアルバムがとてつもなく好きで尚且つ(就職先の忙しさを予想して物理的にも)もう自分の中で最後って決めてたから尋常じゃないくらいの覚悟を決めて行った。

あの構成や曲目、そして何よりも増田くんのスキルがさらに上がっていたことに魅了されてやっぱり彼は私の中で誰にも越えられないものを持っていると思ったし、NEWSが愛しているNEWSというものが大好きだと思った。

だけど、私はもう渦中にいないなと何となくそんな感覚も覚えた。シゲちゃんの舞台も先日観劇して参りましたが、その時も思った。

NEWSが魅せてくれるものに対して感動は勿論するんだけど、あれは周りの彼女たちに向けられたもの。私はJUMP担としてNEWSの現場にお邪魔させてもらっているんだ、って思いが意識下にあった。

 

重要なことだから重ねて言うけれど、好きになった頃の時代に戻ってほしいとかそんな未練は初めからないし今のNEWS、とっても好き。これはどうにも説明出来ないことなんだけど、どちらの時代がいいかとか順位なんてつけられないし、でもまったくの別物だと思ってるわけでもかと言って同じものと思ってるわけでもない。

彼らは大丈夫って思いながらも24HTVくらいまでは誰かがコメントを発信する度に、当時の状況や心境を語ってくれる度に胸が苦しくて初めのうちは泣いてしまうこともあったけど今はそういうところにいない。純粋にグループも個々も世間に認知されつつあり認めてもらえるようになってきた彼らがどんな活動を見せてくれるのかが楽しみです。

 

 最近私が周囲に話していること、「私はきっと伊野尾くんよりも増田くんのが好き。だけど伊野尾くんが担当だ」というもの。…はちゃめちゃですよね(笑)

NEWSのNEVERLANDに参戦してやっぱり思った、私にとって増田くんに勝てる人はいないんです、彼の歌と表現力が今の私の「好き」の感性を作ったも同然だから、仕方がないことなんだなと思います。しかも私が好きだったころからさらにパワーアップしてるんだもん、ずるい。←

一方で伊野尾くんには担降りした後わりと色々あったのも相まって、自担名乗ってていいのか正直ここ最近まで悩んでました。(笑)

というのもJUMP内にめちゃくちゃライバルがいるんですよ、実は。(実はもなにも知念くんについて分析した過去記事がある時点でお分かりと思いますが(笑))

歌もダンスも好きになったとはいえJUMPの中でパフォーマンス面において伊野尾くんは私の中で上位にもなりませんし(ごめん)

だけど大好きな彼はスクリーンに全然映らなかった(DVDにも明らかに映る数が少ない)から、私は初めのうちコンサートに入れば伊野尾くんばかり双眼鏡で追ってた。ここ数年はスクリーンにもDVDにも映るようになったから、それだったらダンス曲は知念くんや有岡くんを見ようとか当たり前のようにやっていました。(ちなみに好きなダンスは上から知念、有岡、中島で歌は有岡、髙木、薮)
でも今年のI/Oはなんでか違った、いや知念くんも有岡くんも少なからず見てたけどね(笑)、でも伊野尾くんを見てる時間が断トツで長かったしダンス曲も結構見てた。私としてはこれはもう成長で…(笑)

 

あとね、実はここ最近までわりと人間性は知念くんや有岡くんの方が好きなんじゃないかって担降りして1年ちょっとくらいからふとした時に断続的に悩んでたんですよ(笑)人間性をとって私は担降りしたのに人間性まで疑ったらもう私は誰担だよ、と( ˙-˙ )

でもここ2,3ヵ月くらいかな、やっぱり伊野尾くんの人間性が好きなんだなあってまた最近思ってるんです。何がきっかけだったのか分からないけどいっとき沈んでた彼へのここ違うって思ってしまってたところがいつの間にか私の中で消化されてて、お兄さんな部分とか、周りに合わせて求められたことをこなそうとする柔軟性とか、ああ好きだなあって。

担降りして2年、やっと最近自分が伊野尾担らしくなってきたなあと思います。

やっぱり今、伊野尾くん以外私の担当にはならないんだなって思う。うん、大好きです。←

 

それから。twitterでは伊野尾慧担当、増田貴久元担、三宅健初恋という肩書きです。何故彼は担当でも元担でもないのか、…健ちゃん(及びV6)は今もだいっっすきですが、担当だったと言えるほど彼をよく知らないからです。←

Timelessのイベントに行けたり、20thのコンサートに行けたり(15年ほど応援してて初めてのコンサート)してそこでもう充分満足してしまったみたいで、いっときはおたくになったもののやっぱり茶の間が向いてるなあと今は判断しています。今回お誘いいただけたけどちょっと忙しいの狭間だったてのもあってコンサートには行きませんでした。

JUMPやNEWSだったらどんなに忙しいの狭間でもその隙間に行ってしまうんだろうけどそう判断しなかったってことは私はきっと茶の間が向いているんだろうなあと思います。DVD楽しみだなあ( ^ω^ )

大好きだけどそういう応援の仕方もあって多分V6ファンの方には同じ仲間だと思ってもらえないだろうなあとは思いますが、私はこれからもこんな感じでやっていきます。(笑)

 

 

これまで書いてきた通り私、おたくをしてる中でメンバーの人数の変動がなかったグループが殆どないからか、タレントの意見もおたくの意見も結構大きいものから小さいものまで沢山見てきました。

それに加えて学生時代10年間音楽の部活で集団で音楽を作る生活を学んでしまったからか、色々悟ってきました(笑)、結構通づるものがあるんです。

誰だって物事に優先順位がある、自分にとっての優先順位が相手にとっての優先順位と一致するとは限らない

ということ。

それと、

自分の期待や意見を押し付けすぎることは相手も苦しいけど、自分も苦しい

ということ。

 

 

同じ"ヲタク"という括りでも、同じ人や同じグループが好きでも、その人がどんな人生を送ってきたかで応援の仕方も熱量も割ける時間も違うと思うし、全く別の世界で提供する側とされる側の立場を持つ彼らと意見が違って当然、無理に合わせることはない。だから私のスタンスを相方や他のお友達に押し付けることはしたくないし、自担に自分の理想を押し付けることもやめました。これはきっとただ苦しいだけだから。しかも彼らは仕事の部分は義務だけどプライベートだって(多少はないけど)ある。彼らが私たちに見せる義務があるのはアイドルをしている時=お仕事をしている時のみ。人に必要以上に仕事の口出ししてほしくないと思う。

それこそ、ファンなんてみんなただ趣味として応援してるのに人の趣味に口出したり文句言うのはそもそもおかしい。仕事でもないし部活でもないんだから人さまに迷惑かけなけりゃそれでいいんです。(笑)

 

欲を言うなら、本当は世間の皆さま(や今は伊野尾くんを良しとしてくれない母や姉)にも今のパブリックイメージの伊野尾慧じゃない部分も知ってもらって好きになってもらいたいけど、そんなことは無理だし←

こう考えるようになったのも、有名になっていく彼がいい意味で順応性に長けてて、すくすくと成長してくれるからそれで私も成長出来たのかも、ありがとうね( ˘ω˘ )

 

 

とそんなこんなで私は今日も今日とておたくをしております。(笑)

気がついたら来春には大学を卒業し社会人となります。お陰さまで就職先も決まりこれまたとんでもなく忙しそう且つ休日はあるのか?って感じだと予想されるためにライブや舞台に行けるか分からないしおた友たちと会える時間もあるか分からないのです。だからもしかしたらしれっとおた卒してるかもしれないし変わらずおたくしてるかもしれないけど、どうなんだろう(笑)

 

学生生活も終盤でいい機会だから半生を振り返ってみました、長々とお付き合いいただきありがとうございました!!(こんな長たらしい文章を読み終えた方は達人なので感謝状贈りたい(笑)ぜひご一報くださいませ←)

 

 

それではヾ(´ー`)ノ